十八夜観世音堂で思う
- 小林孝男
- 2017年5月3日
- 読了時間: 2分

5月3日、長町の十八夜観世音堂に行ってきました。堂内の木造菩薩立像を拝観するためです。奈良時代末期から平安時代初期にかけて造られたものと推定され、東北最古の木造菩薩像とのことです。大変貴重なものです。昨年、宮城県指定有形文化財(彫刻)に指定され、今後は博物館でしかお目にかかれなくなるそうで、今日のご開帳がお堂の中で拝観できる最後のチャンスでした。文化財として大切に保存し後世に伝えていくためには、それなりに環境の整った場所での管理・保管は不可欠です。一方、本来仏像はそれぞれの生活の座に在ってこそ、存在意味があるように思いますし、そこでこそ仏像も生き生きと御力を発揮できるのでしょう。文化財である前に、本来的に信仰の対象なのですから。
十八夜観世音堂は、ビルの谷間に申し訳なさそうにたたずんでいます。社会が大きく変化する中で、そこに生きる人々の信仰心も大きく変化しました。この菩薩像が、地域のこの場所から離れてしまっても大丈夫なのです、心配ないのです、困らないのです。なぜなら、この菩薩像に頼らなくても何の問題もなく生きていけるからです。現代人の日常生活は、昔のように信仰の世界と直結しなくなりました。それを人間の精神的な成長とみることもできます。しかし、その精神的な成長は、人間の心のなかに「傲慢」という思いを確実に成長させています。
お堂の中の菩薩像の優しく素朴なお顔は、そのような現代人を心から憐れんでおられるようでした。



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