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徒然なるままに

  • 小林孝男
  • 2017年9月15日
  • 読了時間: 2分

 北番丁、東番丁は武家屋敷の街区でした。私が所属しているキリスト教会は、北四番丁に面し勾当台通と北鍛冶町の間に位置しています(江戸時代、勾当台通は北四番丁で行き止まり)。この限られた一角について、徒然なるままに、古地図と地理院地図・電子国土web、そしてGoogle Earthを見比べながら、少し調べてみました。

 江戸時代、町人が住む街区と武家屋敷の街区は、丁切(木戸)によってはっきり区切られていました。奥州街道沿いに町屋(二日町や北鍛冶町のある通りが奥州街道!)が配置され、町屋の奥行きは25間(約45m)と定められていました。ですから、地図上で計測すると丁切の場所は、恐らくバス停「木町通二丁目」あたりだったはずです(写真:バス停の右が武家屋敷、左が町屋の街区)。そして丁切から東に間口14間(約25m)の武家屋敷が5軒並びます(あくまでも勾当台通・北四番丁交差点までと限定してですが)。石高によって間口が定められていましたので、間口14間ということは、石高100~150の武士が、この辺りに住んでいたことになります。武家屋敷の奥行きは、30間(約55m)が基本です。ただ、現在の道路の幅員などを加味し地図上で計測すると、どうしても36間(約65m)位になってしまいます。このことについては、後日さらに吟味してみます。恐らく城下町の形成過程に、関係しているのでしょう。

 さて、我が教会は、丁切から4番目のお屋敷の跡地に建っていることになります。そこは、300数十年前「志村長蔵」の屋敷でした(「仙台城下絵図」延宝・天和年間)。その10年ほど後には「芳賀正左衛門」の屋敷となり(「仙台城下五釐掛絵図」元禄年間)、さらにその70年くらい後には、「相原」某の屋敷になります。武家屋敷に名前が書きこまれている古地図は、他にもいくつかあるのですが、残念ながら名前の判読はできませんでした。

 教会が建つこの同じ場所を舞台に、仙台藩士やその家族たちが、様々な人生模様を繰り広げていたわけです。そのことを想像すると、不思議な世界に引きずり込まれそうな気分になります。


 
 
 

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