私たちは確かに知っている
- 小林孝男
- 2017年12月9日
- 読了時間: 2分

私たちが所属する日本バプテスト仙台基督教会は、北四番丁北側に面し、勾当台通と北鍛冶町の間に位置します。この限られた一画について、徒然なるままに、古地図と地理院地図を見比べながら調べてみました。
仙台城下では北番丁と東番丁は武家屋敷の街区でした。また、町屋敷の街区は大手筋及び奥州街道沿いに配置されました(教会近くの二日町や北鍛冶町のある通りが奥州街道!)。町屋敷と武家屋敷の街区は、木戸によってはっきり区切られます。町屋敷の奥行きは一律25間(約45m)でしたので、この一画の木戸の位置は、丁度「木町通二丁目」バス停辺りであったことが分かります。そして木戸から東に、間口14間(約25m)の武家屋敷が連なります。石高によって間口が異なるのですが、間口14間ということは、石高100~150石の武士が、この辺りの住人だったということを意味します。武家屋敷の奥行きは、30間(約55m)が基準です。ただ、現在の道路の幅員などを加味し地図上で計測すると、どうしても35間(約64m)位になってしまいます。この件は再吟味しますが、城下町形成段階の時期の違いが原因しているのでしょう。
さて、古地図によれば仙台基督教会は、木戸から4番目の武家屋敷の跡地に建っていることになります。そこは300数十年前、「志村長蔵」の屋敷でした(「仙台城下絵図」延宝・天和年間)。その10年ほど後には「芳賀正左衛門」の屋敷となり(「仙台城下五釐掛絵図」元禄年間)、さらにその70年くらい後には、「相原」某の屋敷になります。武家屋敷に名前が書きこまれている古地図は他にもありますが、残念ながら名前は判読できませんでした。
教会が建つこの同じ場所を舞台に、仙台藩士やその家族が、喜怒哀楽の渦巻く様々な人生を送ってきました。今、同じ場所に集う私たちもまた、様々な人生を生きています。ただ、昔の住人と決定的に異なることがあります。それは、私たちは「人生の導き手であり『助けの石』(サムエル上7:12)である主イエスを、確かに知っている」という点に他なりません(2017年10月15日の教会週報より)



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