まあ、焦らずに焦らずに
- 小林孝男
- 2022年3月14日
- 読了時間: 4分
更新日:2022年4月17日

明治維新以後、これまで藩単位で行ってきた「国民」の管理を、新政府が国として行うことになります。徴兵制度や租税制度を確立するために、その基礎となるしっかりした戸籍制度を作ることは、近代国家としてスタートするためには不可欠な要件でした。
明治4年(1871)に戸籍法が制定され、明治5年(1872)に政府主導で作ったのが「明治5年式戸籍(通称壬申戸籍・じんしんこせき)」で、日本初の全国統一戸籍ということになります。その後、明治期だけを振り返っても、時代と共に戸籍に関する法律や省令により、「明治19年(1886)式戸籍」「明治31年(1898)式戸籍」と、様式や書式が変化していきます。
壬申戸籍においては、本籍には居住地の屋敷番が記載されました(明治4年制定の戸籍法第7則)。屋敷番とは、居住地である町村内の屋敷を単位に番号を定めたものです。家屋の整理番号のようなものです。「明治31年(1898)式戸籍」では、戸籍法により屋敷番ではなく地番が戸籍に記されることになります(明治31年公布の戸籍法第171条)。地番とは地所に付された番号であり、屋敷番と全く性格を異にするものです。
さて、ここで前回のブログに書いた、明治23年(1890)献堂の仙台浸礼教会新会堂の住所を、「北一番丁26」とする記録と、「北一番丁102」とする記録と二つあることに関してなのですが、一つの仮説を立ててみました。それは「どちらの数字も間違いではなく、前者は最初の戸籍法に基づく屋敷番の数字であり、後者は明治31年に作られた戸籍法に基づく地番の数字ではないか」というものです。新会堂用の土地取得・建築・献堂が行われた明治22〜23年(1889~1890)という時期は、「明治19年(1886)式戸籍」の時代です。この戸籍は以前の戸籍様式の内、記載方法などを省令によって多少変更したものです。本籍を住所地において登録することは変わりませんが、これまで使用されていた屋敷番ではなく地番を使用することに変更されました。ただ実際には屋敷番も並行して使用されていたようです。時代が時代ですので、省令による通達一本で、全国津々浦々まで直ぐに徹底するということは、実際問題としては難しかったのでしょう。ですから新会堂建築時に住所として使用していた「北一番丁26」が、屋敷番だったとしても何ら不思議ではありません。
献堂してから8年後に新たな戸籍法ができ、戸籍には屋敷番ではなく地番を使用することが条文に明記されます。これにより地番の使用が徹底されていきます。屋敷番使用から地番使用へのこの変化が、「26」と「102」の異なる数字が存在する原因である可能性は大いにあります。
大正元年(1912)発行の『仙台市全図』を見ると、北番丁では東端の南側から西に向かい1から順に付番され、西端で北側に移動し、続きの番号が東に向かって付けられています。これが地番です。『仙台市全図』がどれだけ正確に地番を反映しているかどうかは不明ですが、この地図を見る限り仙台浸礼教会の地番は、100~108の間であることが読み取れます。
問題は屋敷番です。これに関してはどのような基準で付番したのか、具体的なことは現時点では全く不明だからです。ただ、明治15年(1882)に発行された『僊臺區及近傍村落之圖』が、一つのヒントを与えてくれました。作成当時の仙台にどれくらいの屋敷があったかが、地図上に記されている屋敷の印で、ある程度判断できるからです。ちなみに北一番丁の西端から北側の屋敷の数を数えていくと、8年後に新会堂が立つ場所あたりまでに、20軒ほどの屋敷があったことが分かります。何となく「26」という数字への近さを感じます。仮説を証明する根拠にはなりませんが、「この仮説はまんざらでもない」という、自己満足の高揚感を抱かせるには十分です。
仮説を証明するために今後どんなアプローチの仕方があるのか、今のところ皆目見当もつきません。法務局で旧土地台帳を閲覧でもすれば何かヒントを得られるかも、などと思っているところです。また、北一番丁に面した通りで明治時代の屋敷番と具体的な場所が、どこでもいいので1カ所でも2カ所でも分かれば、大きな手掛かりになるはずですが・・・。まあ、焦らずに焦らずにといった感じです。



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