父と同じ年となっていいの?
- 小林孝男
- 2020年7月6日
- 読了時間: 3分

7月8日は、45年前に70才で亡くなった父の命日です。この日は毎年巡ってきますが、今年は何かとても感慨深さを覚えます。私が父の年齢と並んだからなのでしょう。父勝治は明治38年(1905)の生まれでした。まさに日露戦争の時で、「勝治」という名前にも直に世相が反映されていたことに、いまさらながら気付かされます。日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、日本の激動期を生き抜いた父でした。
父も私も無口でしたので、気軽に会話を交わした記憶がありません。ですから父の個人情報を、実はほとんどと言っていいほど知らないのです。戦地にも行ったようですし、脇腹に大きな傷跡も残っていましたが、従軍したことや怪我の話は直接耳にしたことはありませんし、私から聞いたこともありません。暗黙のタブーでした。
私にとってはただただ厳格で、物静かで、威厳のある父でした。そんな父との思い出は、小さいころ汽車で小牛田へ連れて行ってもらい、お饅頭をご馳走になったこと。戦後、親族で経営していた小さな工務店の現場が、小牛田にもあったので、その関係の出張に同伴してくれたのでしょう。二つ目は、戦時中の話です。父からの直接聞いたのではないのですが、母がよく言っていました。「お父さんは戦争の時、風船爆弾に使うコンニャク糊を一生懸命作らされていたんだよ。これじゃ負けるはずだよね」と。
そして三つ目は父の臨終の場面です。大学病院で胃がんの手術を受け、退院後自宅療養をしていました。母が献身的に看病していたのですが、その手伝いで布団の上に身を起こした父の背中を、タオルで拭いたことがあります。ひどくやせ細り、骨ばった父の背中に触れた瞬間、大きなショックを受けたことを鮮明に記憶しています。私にとって父は、いつまでも偉大で、強く、大きな存在であり、それとは全く逆の父の肉体の現実を、素直に認めることができなかったのです。また、トイレに行く途中、お粗相をしてしまっている父の姿も、受け入れ難いものでした。やがて臨終の時。皆が見守る中、父は「は~」っと大きく息を吐き出し呼吸をピタリと止めました。「息を引き取る」とは正にこのことなのだと実感させられました。最期の息を吐きだした時のあの「音」は、今でも心に刻まれています。
偉大で大きな存在であった父と、私は今年同じ年になりました。自分自身のことを振り返る時、何と小さく、頼りない存在なのか、何も知らず、何もできないちっぽけなヤツではないか、と感じざるを得ません。父と同じ年となってしまっていいのだろうか? 父の年を追い越してしまっていいのだろうか? 全くの愚問を、自らに真面目に問いかけてしまっている私がいます。



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